聖書 詩編66編10~12節
コリントの信徒への手紙一 3章10~15節
説教題 「キリストが土台」
「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(11)
「ほかの土台を据えることはできない」というのは、キリストという土台を変えてはならないという意味です。土台を変えるのは、キリストを捨てるのと同じです。これでは教会ではなくなってしまいます。建て方についての注意も与えていますので、土台と合わない家を建ててはいけません。キリストと合わない教会になってしまうからです。
では、キリストという土台は教会にとって何を意味するかです。パウロは「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(1:23)と語っています。十字架のキリストこそ、まさに教会の土台です。十字架のキリストによって、私たちは罪を贖われ、永遠の命を約束されました。キリストが助けてくださると信頼していますし、それゆえキリストに従います。キリストの御心を尋ね求めるうちに、私たちは自ずとキリストを中心とするようになります。だとすると、教会が十字架のキリストを「土台」とするのは、キリストが中心になることだと言って良いのではないかと思います。十字架のキリストは私たちにとって救いの要なのですから。