聖書 詩編31編22~25節
    ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節
説教題 「信仰による義」
「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(16)
  パウロは「義とされる」という言葉を神と人との間の関係を表すために用いました。すなわち、神が人に対して「義とする」と言われるとき、神はその人を罪のない者と認めてくださっています。神との関係に破れを来していた人が、神に受け入れられたわけです。「義とされる」のは、救われると言うに等しいのです。
  「義とされる」のは、「ただイエス・キリストへの信仰によって」です。ただキリストだけ、信仰だけです。キリストの十字架の出来事は神が私たちの救いのためになさった、と知らされたときに「信じます」と言って答えます。そのとき私たちは「キリストへの信仰によって義とされた」のです。
  ですから、信仰だけで生きていけますし、これこそ神が私たちに望んでおられることです。主キリストの死によって義とされた。これだけを信じなさい、と神は語っておられるのであります。