聖書 イザヤ書53章10~12節
マルコによる福音書10章32~45節
説教題 「仕える者になる」
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(45)
主イエスが来られたのは、「多くの人の身代金としてご自分の命を献げるためでした」。主イエスは身代わりとなって、ご自分の身をお献げになりました。このことを主イエスは、「仕える」という言葉で表されました。本来なら、主イエスは人から神として崇められ、仕えられるべきお方です。それなのに主イエスは、「仕えられるためでなく」とお断りになった上で、「仕えるために来たのだ」と、お語りになります。主イエスは言われて嫌々でなく、ご自身から進んで、私たちのところに赴いて来られたと、お語りになっているように聞こえます。
つまり、主イエスを見ておりますと、「仕える」というのがどういうことなのか、徐々に分かってくるのです。誰かから言われてではなく、自ら自分を捨てて、ほかの人の前に身を差し出します。遜ります。苦難をも顧みず、ほかの人のために尽くすということであります。私たちが仕えるようになれるのは、主イエスが苦難をも顧みず、十字架に突き進んでいかれたことに、驚かされたからではないでしょうか。貴い恵みをいただいて、自分というものを打ち砕かれます。