聖書 イザヤ書57章14~15節
フィリピの信徒への手紙2章12~18節
説教題 「主の従順さにならって」
「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(12)
「イエス・キリストは十字架の死に至るまで従順でした」(8)。「だから」なんです。主キリストの従順さによって私たちは天の約束を与えられました。「だから、あなた方は…」、とパウロは続きを記していきます。
パウロが語る「従順さ」は「聞き従う」とも訳せまして、「聞く」という言葉が元になって生まれました。従順さというのは、聞くことから始まるわけです。教会にいて私たちが聞くのは、神の言葉である聖書です。座って聞かされているだけでありまして受け身の状態です。受け身ですけれども、神からのものと思って有り難く頂戴いたします。まったくの受け身ではないわけです。私たちは聞いて、聞かされたものを「聞き分ける」ということをしています。神からのものを聞き分けて、神からのものに従います。ここに「従順さ」が表れます。
反対に、私たちを惑わす者に対してはノーと言います。つまり「従順さ」は、教会が一つになって惑わす者と戦うことも求めます。戦うべき相手には教会が一つになることも、パウロはここで伝えているのです。